― C触覚線維・幼児期健忘・情動調整から考える ―
はじめに|思い出せない体験は意味がないのでしょうか
乳幼児期の体験は、その後の発達に影響すると言われます。
けれど私たちは、赤ちゃんの頃の出来事をほとんど覚えていません。
これは「幼児期健忘」と呼ばれる自然な現象です。
では、思い出せない触覚体験は、意味を持たないのでしょうか。
近年の脳科学は、「覚えている記憶」と「体に残る記憶」は別の仕組みであることを示しています。

幼児期健忘と記憶のしくみ
幼児期健忘は、主に海馬の未成熟やその後の神経発達の影響によるものと考えられています。
けれど、記憶は一つではありません。
① エピソード記憶(物語としての記憶)
出来事を言葉で説明できる記憶。
海馬が中心的に関わります。
② 感覚・情動記憶
匂い、音、触覚などを通して残る、言葉にならない記憶。
扁桃体や島皮質などの辺縁系が関わります。
幼児期健忘で失われやすいのは①ですが、
②の感覚・情動記憶は保持される可能性があります。
触覚と脳|C触覚線維の働き
乳幼児期の触覚発達を考えるうえで、重要なのが C触覚線維(C-tactile afferents) です。
この神経線維は、
- ゆっくりとしたストローク(約1〜10cm/秒)
- 体温に近い温度
- 穏やかな圧
に最もよく反応します。
C触覚線維からの信号は、主に 島皮質 に届きます。
島皮質は、身体の内側の感覚と情動を統合する場所です。
つまり、やさしいタッチは「触られた」という情報だけでなく、
“安心した”という感覚を脳に生み出す刺激でもあるのです。

共調(co-regulation)としての触覚
乳児は自分で気持ちを整える力がまだ未熟です。
抱っこや穏やかなタッチは、
- 心拍を安定させ
- ストレスホルモンを下げ
- 神経の緊張をゆるめる
ことが報告されています。
こうした外側からの調整が繰り返されることで、
少しずつ自分で整える力へとつながっていきます。
触覚体験は、情動調整の練習の場でもあります。

触覚体験とレジリエンス
乳幼児期の安心できる触覚体験は、
- 扁桃体の過剰反応を抑え
- 前頭前野との連結を育て
- ストレス反応を安定させる
可能性が示唆されています。
その積み重ねが、
- 情動調整力
- 対人信頼感
- ストレスへのしなやかさ(レジリエンス)
の基盤につながると考えられています。
もし触覚的安心が少なかった場合
乳幼児期に十分な触覚的安心が少なかった場合、
- 不安を感じやすい
- 身体の感覚に気づきにくい
- 人との距離に迷いやすい
といった傾向がみられることがあります。
ただし重要なのは、これは「固定された結果」ではないということです。
神経系は生涯にわたって可塑的です。
成人期であっても、
- 安全な関係性
- 安心できるタッチ体験
- 身体志向的アプローチ
を通して、神経回路は再編成される可能性があります。
触覚は言葉よりも早く届く
触覚は、言葉よりも早く、深く届く感覚です。
発達支援やトラウマケア、認知症ケアにおいても、
触覚刺激は情動へ直接働きかける経路として注目されています。
タッチケアは単なる情緒的関わりではなく、
神経生理学的な根拠を持つ支援方法のひとつと考えることができます。
触れる速さ、圧、温度、呼吸のリズム。
それらはすべて、子どもの神経に向けたメッセージです。
脳に残る触れられる記憶
幼児期健忘によって出来事は忘れられても、
乳幼児期の触覚体験は、感覚・情動記憶として脳に残る可能性があります。
C触覚線維、島皮質、共調、情動調整。
これらの知見は、「触れる」という行為が発達にとって持つ意味をあらためて示しています。
触れることは、
目には見えないけれど、神経の土台を育てる営みです。

